“コンサナリスト”誕生秘話
ユート・ブレーン入社後〜30歳までのストーリーを公開します。
入社から半年は雑用の日々。当時はパソコンもなく、通信教育の採点(○×付け)をしたり、荷物を運んだり、コピーしたりしていた。そんな中、ユート・ブレーンで発行していたMR・MS向け情報誌「アプローチ」の存在を知り、「30歳までにこの情報誌の編集長になれたらいいな」と思う。
入社半年後。医薬分業の進展を見越して、調剤薬局向けの情報誌を創刊し、医薬品卸に配布してもらおうという構想が立ち上がった。その編集部員の一人になれた。月に1回原稿を書く仕事ができた。自分の書いた原稿が作品として数千人に読まれている事実を知り、感動した。さらに、「医薬分業ハンドブック」というタイトルの本の執筆・編集に携わり、本に名前が載った。嬉しくて両親に見せた。両親は喜んでくれた。
入社1年半後の25歳。信じられないことが起きる。「アプローチ」の編集長になることになった。原稿をろくに書けない自分を編集長にするユート・ブレーンの懐の深さに驚いた。ていうか、それでいーのか?と思った。「25歳で編集長」という肩書きはおいしかった。学生がつくるフリーペーパーではなく、第三種郵便物。業界内の地位が確立された情報誌だった。友人の勉強会に講師として招かれた。テーマは「編集長になっちゃった」。そのまんまだった。でも講演はウケた。70人くらい参加してくれた。この時期は異業種交流会に活路を見出していた。
27歳くらい。今度は、管理職向けの情報誌「ストラテジー」の編集長に就任。有名な人を執筆者に選ぶよりも、無名な人で日本の将来の医薬品業界に役立つ人を発掘することに力をいれた。うれしいことに、多くの執筆者がその後有名になり、今や医薬品業界の中心的な人物になっている。昔から人を見る目には自信を持っていた。他にも、他業界のセミナーなどに数多く参加し、勉強し、医薬品業界に数多く提言を投げかけた。「ストラテジー」は廃刊してしまったが、編集長時代に学んだことは非常に大きな財産になっている。この時期に本を出したが全く売れず・・・。
30歳くらい。好きでなったジャーナリストの仕事だったが、何か不満だった。そんな時、知人から「コーチングを勉強しているので、実験台になって欲しい」と言われた。興味があったので即OK!月3000円×3ヶ月で契約した。コーチングを進めていくうちに、自分の奥底にある欲求が浮き彫りになってきた。自分は「人に良い影響を与えること喜びを感じている」ことを感じた。ジャーナリストは個人に深い影響を与えられないことを実感していた。そこで、コンサルタントを目指したいと思った。当時の社長に「コンサルタントになりたい」と直訴した。
この続きは「金持ち兄さんとの出会いが人生を変えた」でお話します。